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大学院留学 アメリカでPh.Dをとる。その方法は?

      1. 始めに
      2. 応募要綱
      3. 大学選び
      4. GRE
      5. エッセイと推薦状
      6. 電話面接と大学訪問 UC Irvineの場合
      7. 電話面接と大学訪問 Johns Hopkinsの場合
      8. 奨学金
      9. 日米比較
      10. 半年を終えて ボルチモアより報告(01/23/2001)
 

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1 始めに

大学院留学は幅が広く、たくさんの米国で活躍される大学院生がホームページで事例を紹介しています。これから留学される方はこういったページをぜひ活用されると良いと思います。モチベーションも高まるでしょう。けれど、読んでいくにしたがって著者によって意見が相当違うということがわかると思います。これはこちらに来てKagakushaメーリングリスト(米国大学院の学生およびそれを目指す日本の学生が集まるメーリングリスト)で他大学の日本人学生とやりとりをしている中で再確認できました。そして僕自身も改めてその多様さに驚かされました。これはやはり大学院大学のプログラムの多様性と留学生のバックグラウンドおよび目的がさまざまにことなるためだと考えられます。そして同時にこれは大学院留学の一般化が難しいということを意味しています。

けれども、大学院留学に要求される資料はどこの大学もほぼ共通していますので、これにそって話をすすめることはできるでしょう。大学院留学を客観的に評価するには日米教育委員会のアメリカ大学院留学の手引がもっとも適していると思います。ここでは、この手引きを参照しながら、ケーススタディーとして脳科学の博士課程に留学した場合の事例を紹介します。ある程度は生物系、そして理学系の留学に一般化できるものもあると思います。

それでは、まず僕の場合のケーススタディーから

神経科学分野でアメリカへの留学を目指し、2000年9月からジョンズホプキンス大学医学部の神経科学科で勉強することになりました。ここでは神経科学分野でのアメリカ大学院留学の現状を報告したいと思います。まずは自己紹介から。私は1999年まで慶応義塾大学理工学部物理情報工学科に在籍して、主に物性や統計物理などの応用物理を勉強をしてきました。かねてから神経科学をやりたいと思っていたため、4年生になって所属した慶應の生体医工学研究室の富田豊教授のはからいの下、塚田稔教授の御厚意もあって玉川大学工学部生体情報工学研究室で1年間勉強させてもらうことになりました。その間、卒業研究である海馬スライスの光計測の実験と平行して、留学の準備を進めました。

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2 応募要綱

アメリカの大学・大学院は9月から始まるため、前年の9月ごろから大学院入学の募集が始まります。応募〆切は1月から2月、早いところでYale大学などは12月いっぱいでした。しかも応募は早いほど有利と言うのが留学者の間での定説で、これを見越して1年以上前から準備する必要があります。準備項目はTOEFL・GRE・大学の成績・エッセイ・推薦状(3通)でほぼどこの大学も統一されています。ここでTOEFLはカナダ・アメリカの大学・大学院を受験する外国人学生が受ける英語のテストでご存知の方も多いでしょう。GREはアメリカの大学4年生が大学院進学のために受けるテストで英語・数学・分析テスト(ゲームみたいな問題)からなります。高校生が大学入試として受けるSAT(日本のセンター試験に相当)というテストの大学院版で問題型式も非常に似通っています。この他に自分で書いたA4二枚程度のエッセイに意気込みを書き、教授の推薦状3通を取りつけるれば完成です。言うは易く行うは難し。実際にすべてを完璧にそろえるのは1年では間に合いません。私の場合は大学入学当初から応用物理専攻でありながら、神経科学で留学すると心に決めていたので語学留学や米大学の夏期授業の履修なども含めて4年間かけて留学準備をしてきました。それでも最後まで余裕を持って進められたことはありませんでした。しかし分厚いカリキュラムを読み、正式な文書での大学とのやり取りをしたり、書類発行の手続きなど、まだ社会慣れしていない学生にとっては大いに勉強になり、やるだけで社会的にすこしは成長したきがします。いま留学は一般化して大学院留学でも代行手続きの機関がありそのメリットもありますが、これから留学される方は自分でやってみるのも悪くないと思います。

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3 大学選び

まず応募書類を整える前に受ける大学を決めなくてはなりません。しかしこれが一大事です。まずどこにある明確でない。だいたいSchool of Science(理学部)の中にあることが多いでが、医学部や教養学部の中に入っていることもあります。それぞれの学部に似たような学科がある場合もあって、一つの大学の中でも自分に適したところを探さなければなりません。また名前もまちまちです。Neuroscienceというわかり易いものからテキサス大学のDept. of Neurobiology and Anatomy, MITのDept. of Brain and Cognitive Sciences, そしてDept. of Pshychologyでも現代的な神経科学が行われていることがあります。こういったことはすべてインターネットで調べます。ほとんどの大学や学科はパンフレットのPDFをネットに置いているのでこれをプリントアウトします。サイト上の情報もプリントアウトして置きます。すると10校も調べればたちまち膨大な資料が得られます。数年前まではすべて手紙で資料を要請してとどくまで一ヶ月以上かかっていたといいますから留学は情報収集の面でも格段にやり易くなったと思います。加えてインターネットにエッセイなどを書きこんで出願できる大学もあります。UC IrvineやPrinceton大学などはこのシステムを採用していました。私もUC Irvineはインターネット出願を利用しました。やはり一番始めに大学側からレスポンスがあったのはこの大学でした。

一般の神経科学系の学科はPh.Dを目指す学生を取ることを前提としています。ですからマスターがなくドクター5年間というのがほとんど(私が応募したところに限ってはすべて)です。マスターの学位を出す学科もありましたが、これは2年目にドクター生として落第した場合に与えられる烙印のようなものとして扱われています。これは神経科学が理論科学として扱われていることを示しています。

さて一通りすべての書類に目を通してよいと思ったものにはすべて応募します。数うちゃ当たるです。大学の選び方には二通りあって、学科のカリキュラムの質で選ぶのとよい教授に着けるかどうかで選ぶ何れかです。ポスドクならば後者が重要だと思います。私自身もはじめは後者の考えで大学を選んでいましたが、学生のうちは神経科学に入門するのだからカリキュラムの良いところを選ぶのも悪くないと思うに至りました。この考えは実際にアメリカで他の志願生と話してさらに強くなりました。


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4 GRE  鋭意執筆中

5 エッセイと推薦状 鋭意執筆中

6 電話面接と大学訪問 UCIの場合

卒論の発表が間もない1月10日にUC IrvineのDr. Larry Cahillからメールが来て電話で話がしたいと言われる。時差があるからこちらは朝6時前に起きて待機、久しぶりの英語でちょっとどきどきしながら待っていると6時15分ごろに電話がかかってきて、面接開始はじめは自分がどういう経緯で海馬の実験をするにいたったかを説明しました。僕は慶應義塾大学の学生でしたが、研究は玉川大学に通っていたため、どういうことか説明するのに時間を要しました。そして、物理学がバックグラウンドであることを伝えました。それから、相手が交代してこの人には自分のやっている実験内容を説明しました。電話で説明するのはなかなか難しいです。僕の実験はアイデア一発の実験だったので新しいコンセプトを理解するのは日本語でも結構大変でしょう。まあ、事前に用意しておいたとおりにしゃべればいいのですが。さて、2番目の教授はとくに僕をとりたかった教授だということが訪問したときにわかりました。two-photonをやっている人でしたので、僕がシステムに興味があることを伝えるとすこしさびしそうでした。ごめんなさい。

UCIに呼ばれたのは僕を含めて約10名留学生は僕だけであとは全員アメリカ人でした。2週間前に第1陣をすでに面接し終えているのでそこにはいたかもしれません。合計で20名をよびその中から5,6人が実際に入学すると踏んでいるようです。この時点で合否は決定していないのですが、外人として呼ばれている場合には合格の率はこの時点でかなり高いと思われます(よゆうたっぷり)。しかし、大学の訪問はすさまじく待遇がよい写真のようなホテルにとまり、外食すればその経費はなんと学科が負担します。国内生の場合は旅費も全額でていましたが、外人の僕には$600の限度額を言われました。オーバーした分は自腹でしたが、進路を決めるのですからそんなことは問題ではありません。(この他にも3,4校の大学を訪問しましたが、どれも訪問生に対しては破格の待遇でした。あるところは、Hiltonに泊めさせられ、入ると一人部屋なのに部屋が二つあり、しかもひ、ひろーい。そして、デスクには果物の山が置いてある。紙が挿してありDear Hideaki, その夜はふかふかのベッドので「こんなに払ってるのに入学しないのかよー。ほらサインしろよ。」と教授に囲まれる夢にうなされました。この様子はバブルのころの新入社員の青田買いを想像すると近いかもしれません。ちょと古いか。)

面接はまず、今年からディーン(学科長)に就任したThomas Carewがごあいさつ。アメフラシでかなり有名な人です。その後、各一人一人の学生に大学院生がついてこの人が教授のところに連れて行ってくれます。そして、教授の部屋で面談。持参した実験の図やグラフをフル活用して相手に話す隙を与えません。質問されても英語がわからないかもしれないからです。時間がくるとさきほどの大学院生が再び現れて次の教授のところへ行きます。合計7回同じ説明を繰り返し、いいかげんすらすらと説明できます。この面接の間に日本人研究者と聴覚の大御所Winbergerと話すことができました。そして、学科主催の立食パーティーでしめます。翌日は勉強関係はいっさいなく大学院生が寮を見せてくれたり、すぐそばのビーチまで連れて行ってくれました。これは、カリフォルニアの大学にしかできない、いい作戦ですね。おそらく何人もの学生がこのビーチにだまされたことでしょう。

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7電話面接と大学訪問 Johns Hopkinsの場合

そうしてUC Irvineでの怒涛の3日間が終わりかけようとした晩に、ホテルの部屋で持参のVAIO-C1Sでメールチェックをしているとジョンズホプキンス大学のDr. David Lindenから電話で面接したいとのメールが。渡りに船とはこのことで、こいつはなんとしても物にしなければと思いました。というのもテストの関係で出願できなかったハーバードとスタンフォードについでジョンズホプキンスはアカデミックな名声のあるところだったからです。UC Irvineを引き上げロスのサンタモニカでつかの間の休暇をとるのもそうそう日本に帰ってDr. Lindenとの電話面接に望んだのです。やはり朝5時前に起床して、机の前に電話を持ってきて待機。どんな質問にも答えられるように机の上には資料をいくつも広げておきます。時前に用意したこちらからの質問用紙もあります。いざ5時丁度に電話が鳴り電話での面接が始まりました。大体自分のやっている研究テーマをしゃべって,大学院でやりたいことを言えばそれでおしまいですが、いろいろ話すうちに40分ぐらい話ていました。あとで知ったのですがこのDr. David Lindenは私の卒論のテーマであるスパイクタイミングとLTP・LTDに関してDr. PooやDr. Sackmanのレビューを書いていた人でその道の精通者の一人だったのです。結果は来週メールするからといっては電話面接は終わりました。そうして1週間後、彼から合否の結果が書いてあるはずのメールが届きどきどきしながら呼んでみると、「もう一度話したいことがあるから、明日電話したい」とのこと。私は合否が微妙なラインにあると思い、次はなにを聞かれるのか考えましたがさっぱりわかりません。考えてもしょうがないので腹をくくって彼の電話を待つことにしました。その日は玉川大学でのNC研究会の発表の日、これは私のはじめての発表なのですが、その明け方約束どおり再び電話がかかってきました。そして第一声「Congraltulation!!」の一言。聞けば大事な内容だから声で伝えたかったんだと。こっちはどきどきで、それどころじゃなかったよと言いたかったですが、なかなか粋なおじちゃんでした。そうして足取りも軽く、はじめての研究発表に望んだのです。

 

ジョンズ・ホプキンス大学のホームウッドキャンパスにはエメラルドグリーの三角形の屋根のに小窓がついたかわいらしいレンガ造りの建物が品よく並んでいる。
中庭を囲むようにKrieger, Ames、一番奥の建物は時計台のあるGilmannホールである。Gilmannホールとは中庭越しの反対の側には図書館があるが、景観を壊さないようにほとんどすべて地下になっている。表にでているのはカフェスタンドのあるロビーだけだ。中庭はいつも手入れをされていて芝生が綺麗に刈られている。その真ん中にはひときわ大きな木がしっかりと根をおろしている。この枝が幾重にも先分かれして曲がりくねった大木は、冬になると時計台の前で物悲しい雰囲気を作れるど、夏には緑の葉をいっぱいにしてこのキャンパスをいっそう和やかにする。ここを中心にしてそこから南北に裾野が広がるように他の同様の形式の建物が続く。
図書館に対して中庭とは反対の側が大学の入り口で、その前はやはり芝生でできた円形の斜面がある。そこが海もないのにビーチとよばれている理由が、翌年の夏になってようやくわかった。夏の午後には学生が集まって日光浴をするのだ。まるでビーチのように。もちろん隣ではビーチバレーをやっている。金曜の夕方にはバーベキューが始まる。図書館のカフェスタンドのとなりのテーブルで僕はこの大木と時計台に時々目をやりながら、思索をめぐらすようになるのだ。

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8 奨学金

基本的にアメリカで学生生活を送る場合外国人がとれる奨学金はほとんどありません。HHMIやNSFの奨学金がメジャーなものでは国籍を問わないもので、NIHのファンドはグリーンカードがなければ申請することができません。日本にいる間に日本の奨学金に応募するのがベターです。僕はまず、日米教育委員会の奨学金案内で探しました。自分が基準に合致しないものを削っていくと、あれよあれよという間に絞り込まれ結局3つしか応募できないことがわかりました。そしてそのうちの二つの奨学金に応募することにしました。結局、ひとつに早く受かったため、もうひとつは途中で辞退しました。そこで、ここではその審査プロセスを振り返ってみたいと思います。涙なしには語れないサクセスストーリーです。

はじめは書類審査です。これにはフォームがあったためこれに従ってこれからやりたいことを書いていきました。教授の推薦を取り付け、入魂のレジュメもいれて送ります。そして第一次書類審査の結果が返ってきました。応募者は124名。そのうち20名が書類審査を通過し京都に呼ばれました。ここで2次審査の英語の試験があります。試験は財団の母体である会社でおこなわれました。ここで、20名が円卓上に並んですわり、初顔合わせ。しかし、みなさんものすごく頭のよさそうな顔をしています。それもそのはず20名のプロフィールの紙が渡されると、東大、東大、東大、京大ばかり、大学院生かポスドク、助教授で大学4年生は僕一人。みなさん大人なのでちゃんとし正装してきています。僕は英語の試験と聞いていたので花柄のシャツにジーンズであきらかに”浮いている”。試験は筆記があまりうまくいきませんでしたが、周りのひとたちを見てここまでくればまあいいかと思ってしまいそうでした。とくに、名前は忘れてしまいましたが、京大の方の礼儀正しさと端正なマスクからくりだされるさわやか笑顔攻撃には参りました。ほんとに、漫画で見た完全無欠の秀才っているんだなと思いました。そして、そのときであった人達とお互いがんばりましょうといって別れを告げ、東京への帰路へ。帰れば卒論の実験や留学準備が待っています。そうして、しばらくたったある日母親がうれしそうにうかってるわよといって合格通知を持ってきたのでした。まさか、あの人達のなかで英語の試験に通るなんてと思いましたが、おそらくぎりぎりだったと思います。しかし、安心するのはまだ早い。20名のなかから10名が受かったに過ぎないのです。そして、第3次最終面接はくしくも12月24日。なんでだー。面接官の先生方もクリスマスに家族と過ごさなくてよかったのでしょうか。12月24日に向けて僕がしたことは、そう、スーツを買うことです。僕はスーツなるものを持っていなかったのです。就職活動もしていないし。そこで、玉川の友人が働いていた渋谷のShipsで黒のスーツを買い込みました。ほんとに真っ黒で普通はまず選ばないと思いますが、ここはインパクト勝負。着てみるとなかなかピシッとして、なんとこれ一着で冠婚葬祭もいけるじゃあーりませんか(チャーリー浜)。母親が持ってきたティファニーの赤いネクタイが良く合います。12月24日試験は午後のため、当日は京都に泊まることもなく東京からいって帰ってくるサラリーマン出張スタイルをとることにしました。面接は会長および各大学の教授などからなり、全員で7名ほどに囲まれました。しかし、スーツのせいかどうどうと話すことができました。面接は僕が最後の番だったのですが、終わって控え室にもどったあと僕だけもう一度呼び戻されて2,3質問を受けたのであせりました。そうして、京都駅に戻りクリスマスソングをききながら京都の女の子はかわいいなあと思いつつ、東京行きのひかりへ(のぞみではない)。東京は新宿で再びカップルの大群をみて涙しました。1999年のクリスマスは僕にとってとても長い1日となりました。そして、結果的に忘れられない1日となるのです。すぐ翌週には、面接の結果の通知が返ってきて、どきどきしながら開封。だめもとで、えいや、と見てみると合格の文字が。両親と大喜びしました。その後、アメリカ出発前の7月には会長と会食させていただき、大変感銘をうけました。このような慈善事業を一企業が負担するということが、どれだけ社会的に貴重なことであるか、志の高さに身の引き締まる思いでした。その際、多数の応募者のなかから本年度は僕だけの受給ということを知らされ、現在の自信につながっています。

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10日米比較 大学教育の位置付けの違い 鋭意執筆中

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半年を終えて ボルチモアより報告(01/23/2001)

ボルチモアの冬はやはり大変冷え込み、京都や東京の同じ時期よりもずっと寒いようです。しかしながら、寮と学校が近いため日本のように外気に触れることがそれほどありません。医学部やジョンズ・ホプキンス病院を擁するこのキャンパスはJohns Hopkins Medical Institutionと呼ばれ、港とビルの建ち並ぶインナーハーバーと呼ばれる市街地とは2,3キロ程離れています。学校が始まってからはこのキャンパスをでてインナーハーバーへ行くのは月に一度あるかないかといった程度になってしまいました。夜には寮の部屋からインナーハーバーのきれいな夜景がよく見渡せます。

住環境はとても良いとはいいがたく、病院の目の前にあるため昼も夜も救急車が行き交い、しばらく静かになったかと思うのもつかの間、上から患者を搬送したヘリコプターがばたばたと通過していき目の前のビルの屋上に着陸します。街の治安は非常に悪く昼間でもあまり学校から遠い通りは歩かないほうが無難です。あまりに危険なため、キャンパスの道路には道路の角ごとに設置された防弾ガラス張りのボックスに警察官が入っており、キャンパス内の道路に死角はありません。そのため、逆に学校から寮へ帰るのならば夜中でも安全です。

今年度のニューロサイエンス学科への入学者は14人です。内訳はPh.D studentが8人、MD./Ph.D studentが6人です。Ph.D student8人のうち実に5人が留学生です。内訳は台湾2人、中国1人、シンガポール1人です。最近になって留学生のなかで中国語をしゃべれないのが自分だけであることに気づきました。中国圏の勢いを感じます。また、MD./Ph.D studentは全員アメリカ人で彼らはすでに2年間の臨床研修を終えてニューロサイエンス学科に今年から配属しています。その他のPh.D studentも研究員としての実績があったり、あるいは兵役などに卒業後の何年かを費やしているため、おそらく、全員のなかで私が一番年下だと思います。

授業はクォーター制で今はIntroduction to Molecular Neuroscienceがメインの授業です。内容は多岐にわたりますがすべて神経細胞の分子レベルの構造や機能に焦点が絞られています。中間試験は決して完璧な点数ではありませんが、自分ではある程度納得しています。日本では考えられないくらいの時間を費やして準備しましたが、まったく違う分野に挑戦しているので十分な生物のバックグラウンドをもった学生には勝てないこともわかりました。とくに留学生は生物学で文字通り各国のトップの学生がきていると思われます。例えば、台湾からきたデビッドは現在25歳ですが、16歳で医学部に入り7年間で医者になったあと2年の兵役を済ませ、ジョンズ・ホプキンスに来ています。彼は台湾でもっとも若くして医学部に入り、そして現在もっとも若い医者だそうです。その他、北京大学やシンガポール大学から来た学生もトップクラスであることは間違いないです。私のようにまったく畑違いのところから挑戦している学生はアメリカ人のなかにもいないようです。

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